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特集 パレスチナの歴史

−大国にほんろうされたパレスチナの悲劇−



イェルサレムの旧市街  パレスチナの歴史  中東戦争によるイスラエルの領土の拡大  パレスチナ暫定自治

(この歴史地図は、『世界史地図・図解集』にも収録されています)


 地中海東岸に位置するパレスチナ。人びとがこの地に住みはじめたのは紀元前のことです。パレスチナはユーラシア大陸とアフリカ大陸を結ぶ地理的に重要な土地であるだけでなく、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の聖地が存在する宗教的にも意義の深い土地です。そのためにパレスチナをめぐっての人びとの争いは古代にはじまり、今なおつづいています。

イェルサレムの旧市街

イェルサレム市街図

 ユダヤ教の「嘆きの壁」、イスラーム教の「岩のドーム」、キリスト教の「聖墳墓教会」の聖地が近距離にあります。
 イェルサレム東部に菱形をした面積約1平方kmの地がイェルサレム旧市街です。「岩のドーム」はイスラーム教を開いたムハマドが昇天したとされる巨岩の上に建てられた、金箔をはったドームのことです。
 イスラーム教の聖地「岩のドーム」がある「神殿の丘」地域をとりまく壁の、ユダヤ教徒地区に接した西側部分に「嘆きの壁」があります。「神殿の丘」の由来はかつてそこにユダヤ教の神殿があったからです。つまり「神殿の丘」一帯はユダヤ人にとって最も神聖な場所でした。しかし神殿がローマ人やイスラーム教徒によって破壊された後、ユダヤ人はそこへ立ち入ることを許されませんでした。
 「嘆きの壁」は、紀元70年ローマ帝国の軍隊によって破壊されたユダヤ教の神殿のただ一つの遺構であり、ユダヤ人の聖地です。中世以来ユダヤ人はこの壁に額を押しあて、聖なる都の滅亡と神殿の荒廃を嘆き、その回復と復興を祈ってきました。
 「聖墳墓教会」はイエスが十字架にかけられたゴルゴダの丘と、イエスが埋葬されまた復活した墓をふくむ巨大聖堂です。

パレスチナの歴史

地中海東岸の諸国家

 パレスチナは、地中海の東岸、東はヨルダン地溝の周辺部まで、北はレバノン山地、南はシナイ砂漠に接している地域をいいます。現在イスラエルがこの地域77%をしめています。
 平野は比較的浅いところに不透水層があり、このため地下水が簡単に得られオレンジ類などの栽培がおこなわれています。気候はシリア、レバノンにくらべてより乾燥して暑い。イェルサレムでは年平均気温15.9度(東京、15.6度)、8月の平均気温は23度(東京、27.1度)、1月の平均気温は7度(東京、5.2度)で、年降水量は658mm(東京、1405mm)です。
 遊牧民であったヘブライ(ユダヤ)人がパレスチナに定住したのは前1500年ころです。前1000年ころダヴィデ王とその子ソロモン王のもとで、イェルサレムを都とするヘブライ王国は最盛期をむかえました。ソロモン王の死後、ヘブライ王国は北のイスラエルと南のユダに分裂しましたが、いずれも滅ぼされました。右図はその時代の地中海東岸の状況です。その後この地はローマ人やアラブ系の人たちに支配されました。そしてそれから長い間この地を支配したアラブ系の人たちがパレスチナ人とよばれるようになりました。なお、前13世紀末エーゲ海方面から鉄器をもって侵入してパレスチナ南部の海岸平野に定住したペリシテ人に、パレスチナという地名は由来します。
 紀元後30年ころのイエスの刑死によるキリスト教の誕生と、さらに後132〜後135年のユダヤ人のローマ帝国への反乱による世界各地への離散(ディアスポラ)とともに、約2000年におよぶ国をもたないユダヤ人の流浪がはじまりました。
 ヨーロッパ中世キリスト教社会の発展とともに、キリスト教は、人間をユダヤ人と非ユダヤ人(異邦人)に分け、キリストの福音は異邦人にあたえられるとし、ユダヤ人に「神殺し」の罪をおわしました。1096年にはじまった十字軍の遠征以降、ユダヤ人に対する差別は社会的差別として定着していきました。
 パレスチナを離れて約2000年間世界をさまよったユダヤ人たちは、やがて彼らの祖国をつくることを考えはじめました。そのきっかけとなったのが1894年フランスでおこったドレフュス事件です。ユダヤ人の軍人ドレフュス大尉はドイツのスパイとして軍法会議で終身刑をうけました。しかし1896年に別に真犯人が判明しました。軍部は威信保持のために真犯人をかばい、国民の反ユダヤ主義をあおり、あくまでドレフュスを有罪としました。結局ドレフュスは1899年特赦で釈放され、1906年無罪となりました。オーストリアのユダヤ人著述家テオドール=ヘルツルは著書『ユダヤ人国家』の中で、ユダヤ人の民族国家をパレスチナに建てようとするシオニズム運動を提唱し、1897年に第1回シオニスト会議開催に成功しました。なおシオニズムの語源はイェルサレム南部の丘シオンに由来します。
 第一次世界大戦(1914〜18)のときトルコ(オスマン帝国)がイギリスの敵国ドイツの同盟国となったため、イギリスはトルコ支配地域のアラブ人をトルコから離反させようとして、1915年10月エジプト駐在イギリス高等弁務官マクマホンは、地中海東岸地方のアラブ人居住地域に大戦後独立することを認めることを、メッカのアミール(総督)フセインと約束しました(フセイン・マクマホン協定)。
 ところが第一次世界大戦の末期の1917年11月にバルフォア宣言が発表されました。それはイギリス外務大臣アーサー=バルフォアがイギリスシオニズム連盟会長のロスチャイルド卿にあてた書簡のかたちで、パレスチナにおける非ユダヤ人共同体の市民的・宗教的権利を侵害しないことを条件として、ユダヤ人が彼らの祖国をパレスチナにつくることに同意したものでした。
 この協定や宣言は明らかに矛盾しています。イギリスは、アラブ民族とユダヤ人国家建設運動の双方に、パレスチナをふくむ地域での独立支援を約束して協力させ、現在にいたる紛争の原因をつくりました。
 第二次世界大戦後の1947年11月に開かれた国際連合総会は3分の2の多数で、ユダヤ人国家とアラブ人国家の二つの国にわけるパレスチナ分割決議案を可決しました。さらにユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の聖地のあるイェルサレムを国際管理下に置くという内容でした。
 第一次世界大戦後パレスチナを支配していたイギリスは1948年5月15日その委任統治権を放棄しました。その前日の5月14日ユダヤ人たちはイスラエル国の独立宣言を発表しました。この宣言をアメリカは即日、旧ソ連は3日後に承認しました。パレスチナのユダヤ人地区は喜びの声にあふれましたが、約2000年間住み慣れた土地を失うパレスチナ(アラブ)人たちは反対しました。この後、イスラエルによってパレスチナから追放されたパレスチナ人に100万人以上の難民がうまれました。
 こうして以後、イスラエルとアラブ諸国との間で、下図にみられるとおり4次にわたる中東戦争がはじまりました。

中東戦争によるイスラエルの領土の拡大

中東戦争によるイスラエルの領土の拡大

 その4次にわたる中東戦争は次のとおりです。
・第1次中東戦争(パレスチナ戦争、1948〜49)
 停戦決議で、イスラエルは国際連合のパレスチナ分割決議案よりイェルサレムそのほか1.5倍の広い地域を領土としました。
・第2次中東戦争(スエズ戦争、1956〜57)
 スエズ運河の国有化が認められ、エジプトのナセル大統領は「戦場で負け、戦争に勝った」と評せられました。
・第3次中東戦争(六日間戦争、1967)
 イスラエルは先制攻撃をしかけ、圧倒的勝利を獲得しました。一時イスラエルはその領土を国際連合決議案の約7倍まで広げました。
・第4次中東戦争(十月戦争、1973)
 第3次中東戦争とは反対に、今度はエジプト・シリアが先制攻撃をしかけ、緒戦で優位にたちました。この第4次中東戦争ではアラブ石油輸出国機構がイスラエルに協力的な国へ圧力をかけたため(石油戦略)、日本では主婦がトイレットペーパーの買い占めに走りまわるといった「石油ショック」がおきています。この結果アラブ諸国側が政治的に優位のうちに停戦となりました。
 1948年の第1次中東戦争やイスラエル独立そのほかによって、現在のイスラエルやヨルダン川西岸地域などにいたパレスチナ人は住む土地を失いました。これらのパレスチナ人の民族解放組織として、1964年のアラブ首脳会議で承認されたのがパレスチナ解放機構(PLO)であり、1969年2月以来ヤセル=アラファトがその議長をつとめています。

パレスチナ暫定自治

パレスチナ暫定自治

 1993年9月ワシントンで、当時のアメリカ大統領クリントンの仲介で、PLOのアラファト議長と、イスラエルのラビン首相はパレスチナ暫定自治協定に調印しました。上図はその内容です。協定にもとづき94年にはガザ地区とヨルダン川西岸のイェリコからイスラエル軍は撤退し、パレスチナ人による自治が開始されました。同時に、PLOはイスラエルの承認と紛争の平和的解決を宣言し、イスラエルもPLOをパレスチナ人の代表として認めました。
 しかし、1995年ラビン首相がユダヤ教急進派に暗殺されると、双方とも武力対決路線にたちもどり、現在にいたっております。