
特集 古代アテネ
−アテネ五輪に栄光あれ−
ペルシア戦争 デロス同盟 ペロポネソス戦争 オリンピックのはじまり
(この歴史地図は、『世界史地図・図解集』にも収録されています)
近代オリンピックの第1回大会が1896年にアテネで開催されてから108年、「生誕の地」にもどるアテネ五輪が2004年8月13日に開会式をむかえます。またアテネ五輪は21世紀最初のオリンピックでもあります。そこでこのページではアテネの特集を企画しました。
マラソンはオリンピックのいつの大会でも注目を集めますが、この種目を生んだアテネ五輪では、その存在は特別です。たとえばマラソンのコースにもそのことが示されています。アテネの北東にあるマラトン(英語読みでマラソン)をスタートした選手はほぼ一直線の平たんな道をひた走ります。ところが、4km付近でコースは本道を左にそれ、紀元前490年「マラトンの戦い」で没したアテネ軍兵士の墓を周回します。
そこでまずは「マラトンの戦い」で有名な前500〜前449年のペルシア戦争からアテネをみてみましょう。
当時のアテネは、全山これ石灰岩のかたまりの小山であるアクロポリスとその麓を中心に、四つの部族が集住し、アッティカ半島全体を支配していたポリスです(広さは日本の佐賀県くらい)。
ペルシア戦争

イラン人の大国アケメネス朝ペルシアは、ギリシアと関係が深かった小アジアのリディアを滅ぼしついで小アジアのイオニア諸都市を支配し、古代オリエントを統一しました。小アジアのイオニアのギリシア植民市は、ペルシアの政治的干渉に抵抗して、ミレトスを中心に反乱をおこしました。反乱はただちに鎮圧されましたが、アテネが反乱都市に援軍を送っていたため、ペルシアのダレイオス1世はギリシア侵入に着手しました。これがペルシア戦争(前500〜前449)です。
第1回の遠征(前492年)は嵐のため失敗しました。前490年に第2回の本格的な遠征がおこなわれました。
ペルシア軍はアテネの北方約30余kmにあるマラトンに上陸しました(1927年の測定では、アテネとマラトンの間の距離は36.75kmでした)。アテネは1万の重装歩兵軍でペルシア軍を破り、海へ押しもどしました(マラトンの戦い)。この勝利を、ひとりの伝令がひた走りに走ってアテネの城門にはいり、「われら勝てり」と息たえだえに報告して絶命した、との伝承がもとになり、マラソン競技が始まりました。
ペルシア艦隊は、マラトンの戦いで敗れたあと一路南下し、アテネをめざしました。それより早く、アテネ軍は、マラトンの戦闘が終わると、休むまもなく、伝令がかけた同じ道を引き返してアテネに戻り、防備を固めました。これを知ったペルシア軍は上陸を断念し、帰国しました。この結果第2回の遠征も失敗しました。
前480年、ペルシアは史上最大といわれる軍船・輸送船あわせて1200余隻、約20万の歩兵を動員して第3回の遠征をおこないました。ギリシア軍は海戦で敗れ、陸上ではテルモピレーの戦いで全員戦死するなど苦戦が続きました。
しかし、アテネのテミストクレスはたくみな作戦でペルシア艦隊をサラミス湾に誘い込んで全滅させました(サラミスの海戦)。陸上でもプラタイアの戦いでギリシア軍が勝利をしめ、さらに小アジアでもイオニア諸都市が独立を回復しました。こうしてギリシアはオリエントの大帝国との戦争に勝利しました。
この勝利を、ギリシア人は東方の専制政治に対してポリス市民の自由と独立を守ったものとして、誇りとしました。
<マラトンの戦いの伝承についての異説>
本当に戦勝を知らせに走った伝令がいたのかという疑問です。
・ヘロドトスの書いた『ペルシア戦争史』にこの話がまったく載っていないことです。
・これだけ後世に有名な伝承なのに、伝令の名前がさまざまいわれ、正確にはわかりません。
<サラミスの海戦で劣勢なアテネ海軍がなぜ勝てたか>
当時の海戦で勝敗を決めたのは、自船の船首を全速力で敵船の横腹にぶっつけて穴をあける体当たり戦法でした。そして穴をあけると、こぎ手は全力で逆にこいで敵船からはなれました。劣勢で危機感をもっていたアテネ海軍は戦闘中、狭い船内の全員が一致協力してひたすら敵船への一突きにかけて、船を全力で動かしました。
その結果、戦後アテネでは、こぎ手であった無産市民の政治的地位が上昇し、民主政成立の要因となりました。
デロス同盟
デロス島はエーゲ海南部の約3平方kmの小島です。オリンポス12神の太陽神アポロンと月の女神アルテミスの伝説上の生誕の地とされ、アポロン神の神域に神殿がありました。
ペルシア戦争後もギリシア人はアケメネス朝ペルシアの報復を恐れ連合艦隊を維持し、また小アジアのギリシア植民市をペルシアから独立させるために出動しました。その艦隊の司令官の地位がアテネのものになると、アテネはギリシア諸ポリスによびかけて、対ペルシア攻守同盟を提案しました。前478年に結成された同盟は、デロス島のアポロン神殿を仲立ちとして結ばれたので、デロス同盟とよばれます。同盟諸ポリスは艦船をだせるポリスは艦船を、艦船を提供できないポリスは艦隊維持費として貢納金をだすことになっていました。この基金をデロス島のアポロン神殿にたくわえ、アテネが管理し同盟主となりました。
アテネははじめは同盟諸市に対して対等に近くふるまいました。しかし同盟の基金を海賊の危険があるという理由でデロス島からアテネに移したころ(前454)から、アテネはしだいに横暴になりました。
同盟諸市の政治に干渉して民主政を強行させ、貨幣の統一などの経済的統制をし、同盟市の紛争事件をアテネの法廷で裁き、同盟市に「屯田兵」を配置するなど、強力な支配をおこないました。このためこの時代のアテネを「帝国時代」とよぶ場合があります。
ペロポネソス戦争
アテネから貿易干渉をされていたメガラなどが、コリントとともにスパルタにアテネの不法を訴えました。その結果、前431年夏にスパルタはアテネに攻め込み、27年間にわたるペロポネソス戦争がはじまりました。アテネのペリクレスは、ギリシア最強のスパルタ陸軍と正面から戦う不利を避けて、中心市域に籠城する戦法をとりました。
ところが開戦の2年目に、オリエントに流行していたペストがアテネに入ってきました。ポリスの人口は籠城によって急激に増加し、市民の生活環境はきわめて不衛生になっていました。そのためペストはまたたく間にはびこり、2年間にわたり流行しました。その結果、人口の三分の一ほどが死にました。アテネの指導者ペリクレスもこのとき死にました。
その後のアテネは、好戦派の民衆指導者(デマゴーゴス)に率いられて、彼らの勢力拡張の野心が、せっかくの和平の芽をつぶしました。食糧不足に苦しみ餓死者も続出するにおよんで、アテネは前404年春に、ついに降伏しました。艦船のほとんどを引き渡し、ピレイウス外港までの城壁は破壊されました。
かくして、「マラトンの戦い」からはじまったアテネの栄光の時代は終わりを告げました。このように歴史をたどってみると、ギリシアの人びとなかでもアテネの人びとがアテネ五輪のマラソン種目に思い入れが強いのか理解できるでしょう。
オリンピックのはじまり
1896年アテネではじまった4年に1度開催されている近代オリンピックは、古代ギリシアのオリンピア(ペロポネソス半島北西部)でおこなわれた競技会を復活させたものです。右図にみられるとおり、オリン゜アの遺跡からゼウス神殿などが発見されており、この競技会が宗教的な行事であったことがうかがえます。古代ギリシアではこの競技会のほかに、ピェティア競技会(4年に1度、デルフォイで開催)、ネメア競技会(2年に1度、ネメアで開催)、イストモス競技会(2年に1度、コリントスで開催)などの競技会がありました。地方大会にすぎなかったオリンピア競技会がギリシア全土の市民を集める大会となったのは、全ギリシア共通の最高神ゼウスへの奉納競技会だったことがあげられます。
オリンピア競技会は前776年にはじまりましたが、ギリシアがローマの属州となった(前146)後、ゼウスをあがめるオリンピア競技会は異端宗教の競技会とみなされるようになりました。そして393年、第293回大会を最後に1100年以上続いたこの競技大会は幕を閉じます。