私に効く最強の魔法



 細いステンドグラスの窓が僅かに夕焼けを透かして、本棚の奥に小さく据えられた席に申し訳程度の光をもたらした。開いたページが戻らないよう押さえている手の影が時々文字を隠す程の不自由なら喜んで受け入れた。黒く重たい本棚に、分厚くて古い本が並んで天然の防音空間ができあがり、適度な湿気で冷えたここは静かで心地良い。
「――明日には全て無になるかもしれない。何も実にならず朽ちていくのかもしれない」
 途端に現実に引き戻されて、しかしセブルスはもう一度自分の世界に没頭していく。活字を追いかけ、頭の中を思考で埋めていく。しかし声はやまず、実態を伴ってセブルスの前に立って影を落とした。
「夜が明けないなら夜を楽しめばいい。明日が訪れるなら明日でも構わない。そう思わない、スネイプ?何もそんなに急いで知識を詰めこまなくてもさ。僕達は、まだ学生だよ?毎日を面白おかしく生きる事を許されてる存在だってのに」
「……」
 ばれているのを承知で聞こえていない振りを続け、応対する気がない事を無言で訴える。
「青春はもっと有意義に使わなきゃ。そう思わない、セブルス・スネイプ?」
 せっかく押さえている苦労をあざ笑うように、ジェームズ・ポッターの長い指が、机に向き合った本の表紙を押し上げた。本を閉じる短く鈍い音が「読書はおしまい」とセブルスに告げた。
「『最強の魔法とされる幾つかの事例とそれに見る歴史の変遷』ねえ…最強なのは魔法じゃなくて、それを使う者さ。いかに簡単な魔法で敗れ去った野心家の多い事か、君も知ってるだろ?」
「――貴様さえいなければ読書は十分有意義な時間なんだ。邪魔をするな」
 行儀悪く机に座って自分を見下ろすジェームズを、セブルスは下から鋭く睨みつける。笑わない瞳を眼鏡の奥に持っている男は、笑って、小動物でも可愛がるような手つきでセブルスの頬に触れてきた。指先からゆっくりと線をなぞって、人差し指の先がセブルスの顎を掬い上げた。
「邪魔してほしかったんじゃないのかい?いつもいつも、こんな、誰も来ないような場所で一人でさ。そしていつも僕に見つけられてるじゃないか。そんなに僕と二人っきりになりたいの?」
 口の端だけ笑うような見え見えの挑発になんて、今更乗らない。
「誰も、貴様すらこない場所を探し続けているだけだ。毎度ここまで探し出す暇人の労力は見上げたものだな」
 ホグワーツの広い図書室は奥へ奥へと続いていて、進んでいくにつれて難解度は上がっていく。それらを愛読する教授達などは仕事時間――生徒達がまだ校内を歩く時間にはあまり来ず、そして教授達が愛読するような本を愛読する生徒も滅多にいない。従って、ごく稀にセブルス・スネイプのような研究熱心な生徒が、まるで特等席とばかりにそこを陣取る事ができるのである。
「君を探すのなんてそんなに難しい事じゃないよ。教室か地下室か図書室だろ」
 確かにセブルスの行動範囲は狭い。だが。
「それぞれの距離は結構なものだと思うが。それに私も、毎度場所を変えている。誰かさんが邪魔してくれるおかげでな。――私を探す時間などあるのなら、クイディッチでゴールの一つも決められるだろうに」
「君が僕に会いたいだろうと思って、時間を割いて来てやったんだよ」
 ジェームズのもう片方の手がセブルスの髪を梳いて後ろに流し、そして指先で唇に触れてくる。撫でて、キスのように押しつけてくる。
「どうだか。貴様の方こそ、一人では寂しくて我慢できないのはないのかな」
 軽蔑の上目遣いで、含み笑いで指先に息を吹きかけてやると、笑みを浮かべたままだったジェームズの、眼鏡の奥の瞳が一瞬細く感情を消した。
 そして、

「!!」

 首元のローブを掴まれ、無理矢理その場で引き立たされる。
 下がる事を強要された古い木の椅子が床に擦れて嫌な音を立てる。
「――」
 既に顔全体の感情を消していたジェームズが口を薄く開けて何かを言おうと逡巡し。

 ニッ、と口だけで笑った。

 僅かなジェームズの腕の動きと強さから床に強く投げ捨てられるかと思ったセブルスは、一瞬の間を置いて、次の瞬間には唇に、ジェームズの唇が押しつけられていた。
「んぅ…」
 締め上げるように首元を掴まれ、自分は机に腰掛けたまままったく前に屈まない。セブルスだけが窮屈に、机に全身を阻まれ上半身をジェームズに無理矢理引きつけられてキスを強要されている。キスよりもその姿勢が辛くて顔を顰める。それを良い事に、ジェームズはセブルスの唇を深く味わっている。離れないのに何度も押しつけて、舌はその隙間からセブルスの奥へと侵入した。
 不安定な上半身を支える両腕が震えた。
 いつもセブルスの苦しみを味わう為のキスだった。
「――乗れよ」
 吐息が通り過ぎれる程度のお互いの唇の隙間からジェームズが命令を紡ぐと、セブルスの身体がさらに引寄せられ、膝から机の上に乗り上げてしまう。実際には勿論ジェームズ自身がセブルスの腰に手を回して無理矢理側に寄らせたのだが、少なくとも力でセブルスを思い通りに動かして支配する事になんの障害もないのだった。
 もう一度キスが始まって、次にジェームズの両手がセブルスの身体を這い回る。古く不安定な机の上で膝を折っているセブルスは、逃げ出す為に身体を動かす事ができず、されるがままになるしかない。何度も何度も教えこまれた
愛撫に対する反応が背中を走る。
「ふぁ……あ、あぁ……」
 キスの合間に声が漏れて、視界がぼんやりと、周囲を囲むはずの本を映さなくなった。意識の全てがジェームズの与えてくる快感に向いている。時折、夕焼けに灯されたステンドグラスが気になった。
「そう、こうすると素直になるよね君は……」
 あざ笑う声が耳の奥を震わす。
「僕が恋しかったのは君だろ、僕の指にこんなに感じて」
 素肌に直接触れてくる指。
 聴覚を犯す声。響き、脳の奥を痺れさせる。
 恋しくなんて思わない。ただの条件反射だ。
「僕にしかできない、君に効く最強の魔法を知ってるよ。教えてやろうか?」
 聞きたくない。知ってる。


「――『セブルス』」


「人の名前を気安く呼ぶな……っ」
 喘ぐのを堪えて喋ろうとすると、どうしたって力が篭る。
 それが最後の抵抗みたいで、ジェームズは喜ぶ。
「気安くないよ、愛しんでるさ。だからこそ最強の魔法だろ?僕が呼ぶ、君の名こそが。たまらなく、抗い難い響きだろ。ねえ、僕のセブルス……」
 名を呼ばれ、感じるところを追い立てられる。

 呼ばれる事は、存在を認められているような錯覚。

 呼吸が乱れて、彼の、自分を呼ぶ声と身体に走る快楽が一つになって思考を奪っている。気が付けばキスに応じて、身体を明け渡している自分がいる。
 心が、想いの音を立てる。


 『――セブルス』


 紡がれる名が、過去にない程意味を為す。ただ彼が呼ぶだけで。
 それだけで自分の名が愛おしくなる。自分の存在を実感する。彼の中にいる自分を。
 呼ばれる事が、それだけで自分に幸福感を齎す。
 抗い難い魔法。ジェームズは知ってる。


 だけども、ジェームズは知らない。


「名前を呼ぶなっ……!!」
 何度も身体を震わせながら、彼を体中で求めながら、セブルスはそう言い続ける。心と身体の両方で、彼を感じさせられる。突き上げられて揺れる体を支えられて、支える手の平にすら熱くなって、必死で彼を咥え込む。
「セブルス。大好きだよ、セブルス。だから僕の言う事を聞きな。愛してあげるから。ほら、セブルス…」
 声だけは優しく、容赦なく攻め立ててくるジェームズは知らない。その魔法の威力を。ただ名を呼ばれるだけでは、この魔法は完成じゃなかった。
 ジェームズが分かった気になっている、そんな程度じゃない。
 完成した魔法の、耐えきれない衝撃。

 ジェームズは知らない。



 名を呼ぶ声に『心が伴っていない』と気付いた時の。
 この魔法が、どれだけ哀しい事なのか。



「呼ぶなっ……」
 縋りついて頼むしかない程、心は弱くなっている。
 ステンドグラスが光をともさなくなった。心と同じように、夜がやってくる。
 空っぽの心で名を呼ばないでほしい。自分なんて何にもないみたい。なんて、寂しい名前だろう。悲しい空っぽの名前だろう。
 錯覚したままでいられれば良かったのに。こんなに苦しくなかったのに。
 喘ぎながらキスをしながら、セブルスのかたくなさはすぐにでも崩れてしまいそう。

 名を呼ばれる度ジェームズの心に自分がいない事を実感し、それに苦しむ度、自分の心の中のジェームズに怯える。




 ただ呼ばれるだけなら幸福に浸って溺れてしまえた筈なのに。
 最強の魔法は、いつか心を切なさで破壊してしまいそうだった。



050810




 


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