| 浄明寺(鎌倉市)に住んでいた頃なので、多分昭和30年か31年頃のことだと思う。建築家だった父の知人の下中弥三郎という人が、鎌倉山に陶芸の窯を造りたいので、適当な場所をさがしに行こうという話になり、なぜか高校生だった私も加わって、三人で鎌倉山を車で駆け巡った記憶がある。下中さんは、非常に気さくで、元気の良い老人だったとの印象が残っているが、父とどういう関係だったのかは定かでない。後で知ったのだが、下中さんは陶工から身を起こして、平凡社という百科辞典の出版社を一代で創設したいわば立志伝中の人物であり、湯川秀樹氏などとともに平和アッピール7人委員会の一員として活躍した著名人であったのだが、郷里の丹波篠山と当時の鎌倉山とは、なにか共通する面があったのか、鎌倉山に非常なこだわりを示されていた。 |


| 父とは趣味も合わず、あまり一緒にどこかに行った記憶はないが、鳥好きで(その頃私は日本野鳥の会に入っていたが、そのご30年間中断して、再入会してから早くも18年目になる。)付近の名もない山をあちこち駈けずりまわっていたので、多分鎌倉山にも精通していると思われて、この時はご指名にあずかったのであろう。なにせ半世紀近くも前の話なので、記憶もおぼろげであるが、ロータリー付近から北側の斜面を下りていった地域がいたく気に入られた様子で、その付近を散々歩いたような気がする。多分その地域は今ではすっかり開発されて萩郷という広大な分譲地になっているが、当時は殆どが、山林で所々畑があったように思う。当時浄明寺方面も泉水橋位から先は舗装がされていなかったが、鎌倉山も殆どの道が舗装されておらず、悪路で苦戦した記憶がある。 下中氏は昭和36年に亡くなられ、弟子の?中野一水という人が、窯を興して?、鎌倉山焼の作品が家に贈られてきたことがあったが、父も17年前に亡くなり、下中さんの流れをくむ窯の正確な場所はどこだったのか、その後どうなったのかは知る由もない。(2002年11月) |