おかだ,けいすけ
岡田 啓介
1868年2月13日(慶應4年1月20日)生
1952(昭和27)年10月10日没
福井県福井市手寄上町(福井市城東1丁目)出身
日本海軍軍人
海軍大将
身長、五尺四寸(163cm)
父、岡田喜藤太
母、岡田波留
長男
旭小学校卒
旧制福井中学校卒(第1回卒業生)
1889(明治22)年4月20日 海軍兵学校(15期)卒
1893(明治26)年12月 海軍大学丙種卒
1894(明治27)年〜1895(明治28)年 日清戦争
1894(明治27)年12月 海軍大尉
1898(明治31)年12月 海軍大学乙種卒
1899(明治32)年9月 海軍少佐
1901(明治34)年5月 海軍大学甲種(2期)卒業
1904(明治37)年2月〜1905(明治38)年 日露戦争
1905(明治38)年4月 「春日」副長
 5月27日 日本海海戦に参加
1908(明治41)年9月25日 海軍大佐 水雷学校長
海軍大学教官
1910(明治43)年7月25日 「春日」艦長
1911(明治44)年1月16日 人事局首席局員
1912(大正元)年12月1日 「鹿島」艦長
1913(大正2)年12月1日 海軍少将 佐世保工廠造兵部長
1914(大正3)年8月13日 第2水雷戦隊司令官
 12月1日 第1水雷戦隊司令官
1915(大正4)年4月1日 第3水雷戦隊司令官
 10月1日 技術本部第2部長兼第3部長
 12月13日 人事局長
1917(大正6)年12月1日 海軍中将 佐世保工廠長
1918(大正7)年9月4日 将官会議議員
 10月8日 艦政局長
1920(大正9)年10月1日 海軍艦政本部長
 11月1日 勲一等旭日大綬章
1921(大正10)年〜1922(大正11)年 ワシントン会議
 当時、海軍次官代理
 軍縮条約(ワシントン条約)を支持
第2次山本權兵衞内閣の時、海軍次官
1924(大正13)年6月11日 海軍大将 軍事参議官
1924(大正13)年12月1日〜1926(大正15)年12月10日 聯合艦隊司令長官
 司令長官在任中、無理な演習は避けたため「保安艦隊」と揶揄されるが、ほとんど事故を起こしていない
 (後任の加藤寛治は猛訓練で多数の事故・損害を出した)
1926(大正15)年8月 廃棄駆逐艦「弥生」「初春」を標的に戦艦「長門」「山城」、巡洋艦「川内」「由良」が夜間実弾射撃演習を実施
 百数十発を発射 命中弾無し
1926(大正15)年12月10日 横須賀鎮守府司令長官
1927(昭和2)年4月20日〜1929(昭和4)年7月2日 海軍大臣(田中義一内閣)
1929(昭和4)年7月2日 軍事参議官
1930(昭和5)年 ロンドン会議
 浜口雄幸内閣、全権団の方針を支持
1932(昭和7)年5月26日〜1933(昭和8)年1月9日 海軍大臣(齋藤實内閣)
1933(昭和8)年1月9日 海相辞任 予備役編入
1934(昭和9)年7月8日〜1936(昭和11)年3月9日 内閣総理大臣兼拓務大臣
1936(昭和11)年2月26日 二・二六事件
  首相官邸(麹町区永田町2-1)で栗原安秀歩兵中尉らの襲撃を受ける
  官邸の女中部屋の押し入れに隠れて助かる
  (叛乱部隊は秘書官の松尾傳蔵を岡田と間違えて射殺)
 2月27日1327 自動車で首相官邸を脱出
  真浄寺(本郷)で休憩後、佐々木久二邸(下落合)に入る
1938(昭和13)年1月 退役
1941(昭和16)年11月29日 重臣会議に出席
 対米開戦に際の海上輸送についての懸念を表明
退役後も各方面に影響力を持ち続け、東條英機首相や嶋田繁太郎海相と対立
東條内閣を倒閣に追い込む
高松宮宣仁親王米内光政、西園寺公望、高木惣吉、井上成美らと終戦工作を実現化
1952(昭和27)年10月10日 死去 享年86

著作「岡田啓介回顧録」