「ツネソロ」    三上寛

(ぜいご  ライナー・ノート)


女々しさは微塵もないが、なんと悲しみに満ちあふれたアルバムだろうか。ビリィ・ホリディの『暗い日曜日』を聞いた時以来の衝撃を受けた。
 ショーゲキなどというといかにもだいそれた言い方かもしれないが、女の声はやはり悲しみの場面を限定しない。それが慰めになることもあるだろう。
 だが男の歌は、何度聞いても、しっかりと同じ光景しか提供してこない。
 男の『声』はやはり男の『顔』だからだろう。

このアルバムはツネさんの『人生論』のようなものなのではないのか。
 誰も知らない場所で、ツネは、このようにして死者を弔っているのかと思うとこちらまで辛くなる。
 鈴木常吉がどのようにして人に接し、どのような根拠から言葉を紡ぎ出しているのかが分かるようだ。
 『カンよ、悲しみの分かる人になりなさい』と、十六才の時に諭してくれた詩人、泉谷明は、故郷津軽の恩師だが、生きて今こうしてこのアルバムを聞いているのだから、師の恩に報じたと言えるかもしれない。
 
このアルバムのライナーノーツには百通りの書き方があるだろう。それらを全部繋ぎ合わせれば美しいひとりの男の物語になる。
 一人の男の日記と言っても良い。
人はなぜ悲しむのか。
悲しみはどこからやってくるのか。
この命題を解くためにはまず、各々が一番最初に流した涙を思い出すべきなのだろう。
 私はきっとイカ釣り船を波止場まで迎えるために誰もいなくなった磯臭い祖母の家で
『・・・・・誰もいない』と言って泣いた事だろう。

 きっとそうだ。
 そして誰もいなくなる 
 
 『きっと誰も居なくなる』ツネはその中でもがき、自分の骨を、光るナイフで削ぎ落とすようにしてこの作品を並べたのだ。
 咳!
 最後に。
 最後の咳がいい。
 咳は『声』のビッグバンだ。
 泣き声も歌声も皆ここに還る。