どしゃぶりの富山にAZUMIと一緒に行ったことがある。そこではじめてこのCDに収録されている「あべのぼる一代記」を聞き全身がしびれてしまった。
 「あべのぼる一代記」は、河内音頭にはまっていたAZUMIが創作した新作河内音頭である。福岡風太と共に春一番を主催していた故人、あべのぼるとAZUMIとの「関係」を詠み込んだものだ。この曲、当初はいかにも河内音頭然としていて、その頃から実は何度か聞いていたのだけれども、次第に河内音頭のカタチが崩壊し、その果てにたどりついたこの日の「あべのぼる一代記」は、はじめて聞いた、と言いたい体験だった。語っているのはいったい誰なのか。あべのぼるか、AZUMIか、その誰でもない誰かか。たくさんの"声"が織りなす混沌に巻き込まれるように聞いたその場の全員が、本当はその答えをいやでも感じていたはずだ。その"声"の主は、とても孤独な自分自身だ。
 思い返せばAZUMIはいつだってそうだった。どんなに親しげな表情を見せたとしても、やっぱりどこか孤独を感じさせた。だから「あべのぼる一代記」で、「独りになりたいから歌ってるんだろ!歌え!」と叱咤されるくだりは、AZUMIの核心そのもので、そのものがそのままの言葉で振り下ろされたことに不意打ちをくらい全身がしびれてしまったのだ。
 うっかり感動してしまったけれども、そもそも"独りになりたい"ということは、"うたう"ということの核心そのもののはずだ。自分をとりまく世界への違和感、世の中からはみ出してしまう気持ちのひだ、そんなものがこぼれだして、どうしようもなく形になってしまうものが「うた」だからだ。自分をとりまく世界、つまり社会は"独り"であることなんて許しはしないのだから、そこからひとときでも逃れるために舞台があり、"うた"が生まれる。それが判らないヤツにそもそも"うた"なんてできっこないのだ。だから「うた」は常に歪で、常に孤独であるはずで、AZUMIの"うた"が、常に歪で、常に孤独であるのは、個性ではなく、"うた"そのものであるだけなのだ。だけどそんなただのそのままの"うた"なんて、いまどきめったに聞けやしない。
 これまでのどのアルバムよりも歪で孤独なAZUMI節がそのままで立っている、こんなアルバムが聞きたかった。共有しえない"うた"を聞き分け、"うた"を支えられる演奏者たちによってしか生まれなかっただろう、そのままの"うた"がこの作品には刻み込まれている。こうでなければ聞いてる僕らだって"独り"になれやしない。


高円寺 円盤店主 田口史人



 徹夜明けの浦和駅、券売機前だった。
「それなら、常さんが俺のCDを出してくださいよ」
と、アズミは呟くのだった。
俺だってミュージシャンである。売られた喧嘩は買わなければ生きていけないのである。
だが、「バカヤロー、そんなの出すわけないだろ」とは、とても言えないほどアズミがうたう歌は良いのである。
ついうっかり、俺も「あぁ、いいよ」と呟いてしまったのだ。
しゃぼん玉は誰にも届くことなく消えていく宛名のない手紙だ。
そして、歌は祈りだ。

俺は、あの日、アズミの吹いたしゃぼん玉が、「我々は、いつも死者と共に生きているのだ」と、音を殺して、明け方の空の中に浮かんでいくのを見たのだった。

しゃぼん玉レコード社主  鈴木常吉