浮んでいると思ったら落ちてころがっていた。ころがっているのかなと思ったら佇んでいた。佇んでいるのかなと思ったら歌っていた。歌っているのかなと思ったら眠っていた。眠っているのかなと思ったら漂っていた。他人が思うほど人はひとつの状態に長くとどまれない。それはおたがいさまだ。おたがいさまだから歌っていないときの鈴木常吉に向かって何故歌わないのかと非難をあびせないでください。呑んだり食ったり歩いたりぼおっとしたりしますよ誰だって。そういうことをするから歌だってうまれるのでしょう。旅をしていると思ったら東京に帰っていた。鈴木常吉がほうぼうで歌っている。そういう映像作品だ。台北、沖縄、ソウルで鈴木はコンサート会場、道端、住宅の横、公園その他で歌う。場所が歌わせるのか。歌が地を拓くのか。どこに歌いかけても悲しい。楽しくても悲しい。切なくても悲しい。でも泣いているわけにはいかない。次の歌を鈴木はきっと歌っている。歌っているときに他のことを考えない。全編そのように見える。きっと映像を撮っているときには他のことはまるで考えたことがないという人が撮っているからだろう。地を探り手で辿りながら漂っている。意味を求めているからではない。意味を無くしたからだ。と思う。



2014年夏、湯浅学